マイノリティ
インド出身のアメリカ人が留学志望生に激励を送る会、みたいなのに潜ってきた。
だってポスターに出されてたテーマは「人権について」だったし、勝手に憲法とかの話をするんだと、そう思って行った。
実際の彼の主張は海外に行くこと、海外に行ってたくさんの経験を積むこと、日本に好意を持ってるアメリカ人は多い、そのアドバンテージを有効利用すること、そして困っている人を見つけたら貴方のその能力で助けてあげること、失敗を恐れないこと、そして積極的に動くこと。
どこが人権に関する講演なんだろうか、と思った。たしかに人権についてという題を見て勝手に法解釈の話をするなんて思った私にも非はある。先入観にとらわれ過ぎていた。仕方がない。
そして彼の生きてきた時間を、場所を、振り返りながらされる人種差別みたいな話は、彼は明るく話すからまるで重要な問題だと感じられなかったけど、本当はずっと足を引っ張られてずっと心を傷つけられてきた要因なんだろうな、と思った。
誰にでもずっととらわれてて、消せなくて、一緒にいなきゃいけなくて、今更願ったって過去は変えられなくて、責めに帰すべき点もなくて、コンプレックスみたいになるようなことってあるなって。
彼の言うように、どこで生まれたか、肌の色が何色か、で人生が、人からの評価が変わるのはおっしゃるとおりで間違っていると思うし、今の時代みんなその共通認識は持っているはずだ。
なのに何故未だにその差別が起こるのか、なぜ私は白人の細い女性を見た時にやたら魅了されるのか、黒人の筋肉ムキムキの引き締まった男性を見た時にちょっと怯えるのか。
極論、何故同じ生命体なのに家の中に出たゴキブリに、蜘蛛に、怯えるのか。怖がるのか、排除しようとしてしまうのか。
なんてことをベンチに座って書いてたら隣にはイチャイチャカップルが座ってきたし足元にはゴキブリが出てきた。それで、たったそれだけなのにまた私はベンチを立つんだ。
もうなんなんだろうか。
今日は霞んでスカイツリーが見えない。
誰も責めることができないような仕方ない話に、自分の過去した決断を責めるしかできない話に、過去は変えられないようなそんな話に、いちいちああだこうだ言ったって考えたって仕方ないのに、〜だから仕方ないなんて投げ出すなんてしたくないのに、そんなの理由にすべきでないのに、いつまでも逃げてるのやめよう。
いつだって見なきゃいけないのはこれからなのにいつだって見てるのは過去で、未来にはただ怯えてるだけで。
努力くらいするべきなのよ、私は馬鹿だから、って、そんなの言い訳にすぎないのよ、ちゃんと努力不足って言いなさいよってね。努力しつくしてから言いなさいよってね。
話は戻るけどその会の中で学生側のプレゼンもあった。アメリカにおける移民の人口及びその問題、アメリカにおけるLGBTの問題。
結局私は私の人権を守りたいだけで根本のところで男だとか女だとかの問題に私なりの結論を出すつもりはない。
男尊女卑だとかフェミニズムだとかどうでもいい。どんだけ頑張ったって女は男に力で勝てないし、男は女みたいに子供を産んだりできない。役割が違うんだから仕方がないし、相互理解の上で足りない部分を補って支えあっていくのが最適解なのは十二分に理解しているけどそんなこと言ったって人間だもの、感情がある。性欲に支配された男性だとか、その行為について搾取の感情を覚える自分だとかに嫌気が指す。
そんな話はおいといてLGBT問題でbathroom(トイレ)の男女共用化運動みたいな話が出た。酔っ払った理性の効かなくなった男性とおなじ空間近距離にいるのはどうなんだろうか。レイプとか盗撮とかが横行しそうだ。LGBTがダメだとかそういう話じゃなくて現実的じゃないなあと思う。
LGBTでもLGBTでなくてもその場を目的通り使用して他人に危害を加えない人だってたくさんいるだろうけど、それを利用する人だってどっちにも居る、なんてこともありうると思う。
全男性が理性が効かなかったりする、みたいなことは言ってない。最近良く電車に乗っていて思う。
どうにかして自分の物を押し付けてこようと試行錯誤して不快感を与えてくる男性がいるのに対し、満員電車で多少無理な位置なのに私と密着してしまった故に必死につり革に手を伸ばして離さない人もいる。きっと冤罪が怖いんだろうなとも思うし、そんなに気を遣ってもらって申し訳ないと思う。絶対に疲れるのに、そんなに頑張ってつり革持たなくたって私はあなたを信頼します、そう伝えたくなったりもする。
本当に必要なのは男性専用車両ではないか、そんな意見にもものすごく賛同する。
何が言いたいかって言うと、一人一人人間って違うのに、思考だって経験だって何もか違うのに、男性だからってまとめてそういう風な見方をしてしまう自分が憎い。悔しい。
じゃあどうしろって話なんだけど。
トイレに関してもどうするべきなんだって話なんだけど。
最近答えの出ない問題について考えすぎてる。トロッコ問題だとか、錯誤の一元論、二元論の問題だとか。
答えなんてないのに、思考方法にわざわざ~論なんて名前つけて如何にも分かったふりして議論して、でも結果その問題に対する答えなんてなくて。答えがなくていい問題なのだと思うけれども納得も行かなくてもやもやする。
書き疲れた。だから見直しはしない。結論もない。
ヘルタースケルター
みんな自分のことで精一杯。
誰も他人のことなんて見てないのよ。すぐ忘れられていく。
外見について、ほぼ全て作り物だと、ひっちゃかめっちゃかだと言うけれど、本当のところ、精神がひっちゃかめっちゃかだったなあ、って。
美に執着する女性を描いたという建前、本当はたぶん彼女は執着が美でも、その他の物でも、変わらなかったんじゃないかと思う。
何かのために、何かが足らない気がして、全てにイライラして全てが許せなくて自分が不安で他者を弄ぶことでしか、自分の手のひらの上で転がして言いなりにすることでしか一時的な満足や安心感を得られない。
綺麗に着飾って身に纏って、中身は本当は空っぽで何もない。
ぴったり自分に重なって息苦しい。
自信がないのかな?そういうわけでもないと思ってるんだけど根っこの部分ではないのかもしれない。愛が足りないとか、片側が足りなかったとか、もういいからこれからの話をしたい。
幻覚が見えて狂いだした、雨の中崩れ落ちるりりこに感情移入が止まらなかった。作品を通してせまりくる音楽や色彩美や映像表現が彼女の世界を際立たせた。
いわゆる濡れ場が沢山だと押された作品でもあったけど、必要だったかはわからないが下品なものは何も感じなかった。終わり方も小さな花が咲くような、そんな終わり方ですごく好きになった。
ほぼノーメイクのエリカさん、すごく綺麗だったなあ。復活して最後に振り返ったりりこの美しさも忘れられない。
さくらん
ヘルタースケルターを見て、監督(蜷川実花さん)が同じさくらんを。
泣いても負け、惚れても負け、勝っても負けだ。
誰が泣くもんか。
どこへ行っても同じこと。
咲かない桜などありゃあせん。
「置かれた場所で咲きなさい。」そんな言葉を見たことがある。
どこかで花を咲かせられるような人間は、どこへ行っても花を咲かせられると思う。その逆も然り。
きよはちゃんは強い。とても強い。強くて美しくて芯の通った人。その強さに魅力を感じる。
強さが垣間見える度に心を打たれる。気持ちが痛いほどわかる。たまに見える少々意地の強いところにも可愛さを感じる。びっくりするほど泣けた。
最後はあっけらかんなほどにハッピーエンド。
私は、人と話して無かったらいつの間にか人と話せなくなっていた。昔はブログなんて延々と書き連ねて行けたのに感想でさえも上手くかけない。自分の心をアウトプットできてたのはなんでだろうか、自然の方が不自然に感じる。それでもまだ、生きたいんだと思う。